************************************** 西村ちなみメールマガジン第14号(2005年2月7日発行) 「二つの美術館」 ※無断転用、無断転載は固くお断りします※ ************************************** みなさんこんにちは。衆議院議員の西村智奈美です。 土曜日、私は、二つの美術館、東京駅のステーションギャラリーで開催されていた長野県上田市にある「無言館」の出張展と、雪に覆いつくされた十日町・妻有郷のミティラー美術館を、見てくることができました。今日はこの二つの美術館に関して書いてみようと思います。 朝は「無言館」です。 東京駅周辺には、大きな荷物をぶらさげた人、待ち合わせをする人など、大勢の人が往来していました。風は冷たいのですが乾燥しています。レンガ造りの壁を眺めながらステーションギャラリーに入ると、入場券を自動販売機で買い、荷物をロッカーに入れてから入る仕組みになっていて、他の美術館と変わらない風景です。ギャラリーに入る人たちの流れに吸い込まれるように、私も入場券を買いました。 「無言館」は、戦没画学生が残した絵や彫刻を窪島さんという館長さんたちが集めた美術館です。創作物だけではなく、いわゆる戦地から家族にあてて送った手紙や日記や、使っていた絵の具などが展示されています。小さなギャラリーですが、30〜40人くらいの人がいたでしょうか。熱心に作品を観たりキャプションを読んだりしていました。 戦後、日本の平和教育は、戦争体験の伝承と戦争の悲惨さを語り継ぐことを中心に行われてきたといわれています。本物の平和教育は、そうした経験を語り継ぐだけでなく、悲惨な体験を自分のこととしてとらえた上になお積極的に平和をつくるため行動するものであり、本来であれば体験伝承のうえに成り立つべきものでしょう。しかし戦後60年を迎える昨今、伝承そのものが難しくなってきています。無言館などが果たす役割は決して小さくないと考えるゆえんです。 無言館の作品たちは、私にはどうも「生きている」と感じられてなりませんでした。絵は、無言のまま、しかし圧倒的な存在感で、何かを私たちに語りかけてきています。それが何なのかは分かりません。生きたかった、描きたかった、そういう作者の思いというよりは、「生」そのものがもつ力強さや尊さではないか。そう考えながら、私はギャラリーを後にしました。外に出たら、依然として空気は冷たく、乾いていました。 夕方は「ミティラー美術館」です。 越後湯沢駅で新幹線を降り、「ほくほく線」に乗り換える頃、雪はかなり降っていました。美佐島という無人駅で降り、迎えにきてくださった佐藤さんの車に乗って美術館へ向かう道中、私は自分の身長の2倍ほどの高さまで積もった雪の壁と遭遇しました。通り過ぎる車が2台あっただけで、人の姿や家にともった灯かりも見えません。美術館のかなり手前で車から降り、雪道を歩いて美術館へと入りました。 ミティラー美術館は、インドのミティラー画やワルリー画などを収集した世界でも屈指のインド芸術の美術館です。館長の長谷川さんは十日町市から閉校した小学校の校舎を借り、美術館を運営してきました。それが、新潟県中越地震で作品に被害が出、また建物そのものの被害もあって、現在は閉館中。2月23日の再オープンを目指して修復にとりかかりましたが、雪掘りでそれどころではなくなった、ということです。 長谷川さんはストーブを前にして文化の重要性を語ってくださいました。私はストーブの火で足を暖めながらそのお話に耳を傾け、相当の部分について同調しながらも、このさき「雪国の暮らし」というものはどうなっていくのだろうか、ということを考えていました。春や夏はとても美しい妻有郷。私たちがその夏を楽しむことができるのも、冬の暮らしを引き受けてくださる住民の方々がいらっしゃればこそ。しかし現実に冬の暮らしを雪の中で営んでいる人たちは、雪掘りに追われ、体力を使い果たし、場合によっては雪によって命さえ落としてしまうのです。 帰り道、無人の美佐島駅に定時に電車はやってきませんでした。遅れてやってきた電車に乗ったところ雪崩のため六日町でいったん降り、除雪をまって上越線の電車に乗りましたが、走行中にパンタグラフの雪のため停電。発車しようとしたところ電車前にたまった線路上の雪のため1時間以上停車。 雪国では本当に諦観思想でなければ生きていけないのでしょうか。そんなことを考えながら新潟市に帰ると、路面にはまったく雪がないのです。1日のうちに季節を3つくらい経験しました。